ふと、考えました。
どこからが大人で、どこからが子供なのか?
年齢ではないし、能力でもない。
大人の定義とは何でしょう?
そこで考えて出た答えがこれです。
「自分で我が儘を通せるのが大人
人の手を借りないといけないのが子供」
なぜかというと、
我が儘を通すという事には、責任も伴うし、そのための知識や行動力や善悪の分別が必要であり、コミュニケーション能力もなければ我が儘は通らないと思うからです。
考え出した当初は、「責任」とういう言葉が浮かびました。
それでも責任を基準にしなかったのは、責任をもっている子供もたくさんいるからです。
例えば、ヤングケアラーと呼ばれる方は、未成年でも責任を持っていると思います。
しかし、大人と呼ぶのは違うと思うし、逆に大人と呼ぶのは忍びないと思いました。
大人のような子供もいれば、子供のような大人もいます。
あなたは大人ですか?と聞かれて、大人ですと答えることが出来ますか?
まだまだ子供ですという人の方が多いのではないでしょうか。
この理由は、きっと判断基準が逆だからです。
一般的には、大人になるほど「我が儘を言わない」と教えられます。
「大人になれよ」という言葉は、折れてあげなさいみたいなことですよね。
その認知が、我が儘を言う自分は大人ではないという結論に繋がるのでしょうね。
しかし、自分の願望をきちんと発することができて、自分の足で実現に向かう事は成熟した大人でないと出来ません。
言い換えれば、成熟した考え方が出来る人ですね。
そして、成熟した考え方とは何かと言われれば、きちんと我が儘が言える事となるのではないかと考えます。
一方、大人の定義をするには、子供の定義も必要です。
子供というのは大人になっていく過程のことで、考え方が成熟するまでの期間の事を指すのではないでしょうか?
そして、成熟した考えには正解はなく、人それぞれの回答であって然るべきです。
それがどんな答えでも良いですいし、人と違っても良いのですが、一つだけ大事なことは、自分にとっての答えである必要があるということだと思います。
。
そして、そこで出した回答に対して、答え合わせをしていく作業が、大人になる過程なのだと考えます。
しかし、この自分の答えを出すには環境が必要です。
無条件に愛され、どんなことでも受け入れられる、安心した環境が子供の期間になければ、自分の答えは出せないと思います。
というのも、無条件で受け入れられる経験が必要な子供の時期に抑圧されると、抑圧されないための回答を自分の答えとしてしまうからです。
この抑圧されないための回答というのが、~するべき、や、~しなければならないといった考えを生みます。
誰かの顔色を窺うようになると、自分の心地よさを優先させるより、相手の気持ちを先に考えるようになり、自分の心地よさを蔑ろにするようになります。
これがインナーチャイルド(内なる子供)の原因の一つなのではないかと思っています。
こういった意味でも、子供の部分というのは自分の願望を満たす為に行動する事が出来ない状態で、大人になるというのは自分の心地よさを追求できる状態なのだと考えます。
とはいえ、自分の願望だけを満たすのは当然大人とは言えないので、やはりバランスが必要ですね。
目指すべき割合は、
「こうしなければならない」と「心地よさ」のバランスは5:5が理想です。
こうしなければならないは、頭にすぐ浮かぶと思いますが、自分にとっての心地よさが頭にすぐに浮かばない人も多いのではないでしょうか。
あなたは、心地よい瞬間が頭にすぐ浮かびますか?